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下田から石廊崎へは、たいていの人は、そのまま国道136号を行っちゃうと思います。

でも、その国道からはずれた場所に良い景色の場所が有るんですねぇ。

国道の途中から「吉左美海岸」へ行きますねん。

 すると、ほおぉ~ら、こんな海岸に出ます。

この写真は海岸の右側を写してますが、左側には白い大きな砂浜が広がっており、逆光なので撮りまへんでした。

サーフィンの人達が、たくさん来ていたので、その世界の人たちの間ではこの浜は有名なのかもしれまへんなぁ。

 吉左美海岸の一部ですねん。

海流のためかゴミも落ちてなく、キレイな海岸でした。

海岸に沿って行くと「サウンドスキー場」があります。

写真の左側斜面に砂が崩れてるように見えますが、そこでスキーをやるのでしょうが、だれも居まへんでした。

 
「竜宮窟(だったかな?)」という看板があったので、洞窟状の中を階段を降りてみると、こんな場面に出くわします。

はい、そこから海に入り岩の間を抜けると、そこにはキレイなネーチャン達が乙姫様の使いとして待っており、「いらっしゃいませぇ~」とピチピチした声をそろえて言って・・くれるはずがありまへん。

宮殿掃除担当のバアヤ(越後屋)が後ろからノコノコ付いて来て、「まってぇ~・・」とシワガレ声で言うだけでした。

残念ながら海岸沿いに、そのまま「弓ケ浜」へは車で行けまへん。
「田牛」という所から、細い道を山越えして「日野」という所へ出ますが、この道は入り口が複雑だから、わかりにくいじゃろなぁ。

初めての人は素直に「吉左美」まで戻った方がええかもしれまへん。

まぁ、海岸沿いに「弓ケ浜」まで車で行けないからこそ、あんまり人に知られていない隠れた景勝の地なんでしょうねぇ。

 「弓ケ浜海岸」ですねん。

写真右奥に白い建物が有る所から、車で岬を越える事ができます。
でえじょうぶ、車で3分くらいですねん。
ガソリンスタンドも無い位の距離です。

 「逢ケ浜海岸」ですねん。

穴の空いてる岩が「エビ岩」というらしい。
車はここで行き止まり、前記の「田牛」までは歩いてならば行けるようです。

 同じく「逢ケ浜海岸」で、左が「姑岩」右の二つ岩が「雀岩」

なんで「嫁岩」が無いんでしょう。
きっとヨメがバサマをイジメたので、バサマが泣く泣く岩になったのかもしれまへん。
カワイソーでんなぁ、将来のアァタぁの姿でっせぇ。(^O^)

どや・・だれかと逢い引きするには、ええ感じの海岸でっしゃろ。(^O^)
越後屋と逢い引きしても、ちっとも面白くもねぇが・・

この日は、この「弓ケ浜」の駐車場で車野宿しました。

夜、寝つけれなかったので海岸を散歩すると、御子元島灯台の光が回転してました。
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 下田港内

この写真だけを見ると昔と変わりまへんなぁ。



昔、船が付けていた岸壁は、すっかり様子が違っていました。

僚船が入港した時に、皆して「モヤイ取り」をした岸壁はこんなに狭かったのか?
何となく、岸壁部分だけを増設したような気がする。

当時「東海汽船」の切符販売をしていた売店跡地は、小さい公園と駐車場と変わり、野良猫が2匹不審者を見る目でみていました。シッシッ・・・

σ(*_*)が乗ってた船は、写真に写ってる船の約2倍位の大きさが有り、当時「げんかい」「しきね」「すみだ」の3隻いました。

今この船名で活躍している船は2代目で、おそらく当時の船は現存していないでしょう。

 犬走島の防波堤

この写真風景は当時と変わりまへんなぁ。
なんとなく願壁がボロになってるのと、こんなに狭かったか?と思う位です。

 ペリー上陸記念碑

当時は、もっと港近くにポツンと胸像と錨だけが有ったのですが、来て見たら市内側に移設されて小さい公園化されてました。

確かこの辺は下田ドッグが有って小汚かったと想ったけれど、ツブレタんかな?






下田市内をホッツキ歩いてみました。

写真の柳と川の有る付近のここだけは面影があり、当時はこの付近に飲み屋やらバーが一杯有って、よぉこの付近に来たのだけれど、当時の店は全然無く、店は普通の家になっちまった感じです。

 

給料を注ぎ込んだ店も普通の民家になっちまったようで、道筋を歩いてこの付近・・だったが・・・

場所さえも想い出せなく、たぶんこの家だったのでは?・・と思う家はあった。(写真の家とは違います)

しかし見事な位、なあぁ~も想い出せない。(T_T)
当時歩いたはずであろう裏通りやらメイン通りをウロついても、サッパリ思い出せなく、懐かしさが感じられない。

別に付近が新しく変わったというわけでは無く、古い家々が残ってるのだけれども、こんな所有った?・・ちゅうような感じで・・

トシでんなぁ・・・ボケ始めましたかいのおぅ・・・
アルツハイマ-とか言う、ハイカラな病に掛かり始めたのでしょうか。

 港内観光船と犬走島

当時、一緒に船に乗っていた上司のほとんどの人達は、もう一線を引かれ、あるいは既に鬼籍に入った人達も居ます(ええ人達だった)。

30数年(もうすぐ40年)ぶりに、青春の一時を過ごした地に来て、そんな事を思い出しながら「道の駅」で車野宿しました。

これでもう下田に関しては、思い残す事はありまへん。

しっかしぃ・・・ホンマに見事な位、町中は思い出せんかった。
           (老人の繰り言(^O^))

σ(*_*)が昔、美少年の頃、船に乗っていた時、この爪木崎灯台でいつもかかる号令がありました。




船が下田港を出航した時は、だいたいこの辺で「出航用意、もとえ(当直以外は解散してええという意味)、本船これより〇〇に向かう」と、これからの行動が船内放送されました。

また入港する時は、この爪木崎灯台が真横に見えた頃に「入港用意30分前」の号令が掛かり、それぞれの配置に着きます。

久々に30数年ぶりに爪木崎へ行ってみました。

下田の御用邸脇の道は、昔は薄暗くホコリっぽい砂利道だったのが、きれいに舗装されています・・・そうでっしゃろなぁ。

爪木崎の駐車場から灯台の有る丘を見ると、やっぱし昔と違います。

今はキレイに水仙なんぞ植えてあり、写真のように灯台近辺の散策路に木が生えてますがますが、昔は砂利浜で丘は草地、目立った木なんか生えてかったような気がする。

まぁ、たまに水仙が自生しとったように思いますが・・・

一口で言えば、サミシイ丘に灯台が建ってる・・という感じだったと思う。

灯台への小道も舗装してなくでこぼこの地道だつたが、今はかっかり整備されちゃって・・



確か「エリカの花咲く丘」という小さい石碑が丘のどこかに有ったと思い、探しましたが見つけれませんでした。
σ(*_*)の勘違いだったかな?


 青い海を 見つめて 伊豆の山かげに エリカの花は 咲くという


 悲しい恋に 泣きながら 夕日を今日も 見送った 

     (T_T) クスン・・・シクシク・・・ワアァ~ン・・・
隠しきれない 5000円札
裏側に染みついた 逆さ富士(逆さ富士は写らなかったが)
 本栖湖

5000円札の裏側の写真と比較してね。
ちなみに帰りに富士山五合目まで車で上りましたが、霧で何も見えなかった。


 浄蓮の滝

舞い上がり 揺れ墜ちる
肩の向こうで
越後屋が「わさびアイスクリーム」を食べる

何があっても よくない。
越後屋と越えちまった 天城越え


口を開けば 別れると
言ってみたい 一度だけでも

 走り水 迷い恋 風の群れ 

  天城隧道

くらくら燃える 地を這って(天城越えの道は、こんな道です)

越後屋と越えちまった 天城越え


 
寒~ぅなりましたなぁ。
その寒い朝、郵便配達のバイクで出発したと思いなせぇ。

出発してすぐに、歩道を見ると小汚い作務衣を着て頭にターバン巻いたジサマが竹馬に乗ってトコトコ歩いてました。

はっ?・・ナンジャ、あれは?・・・
竹馬でなく、笠をかぶって杖を持って歩いていれば、そのままσ(*_*)の姿じゃねぇか。(^O^)ダハハハ・・・

しかしσ(*_*)も、こんな風に奇異な目で見られていたんかなぁ・・(T_T)

バイクで一瞬のうちにすれ違った時に、ハタと思い当たりました。
確か先日の新聞に、この人のことが載っていたと・・・
     ↓
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=114213

竹馬で「奥の細道」を歩いてるそうな・・・

後ろには奥さんと思われるオバハンが、小さいリュックを背負って付いて歩いてました。

芭蕉が歩いた旧北陸道は、この道ではなく海岸端の国道352号線なんだが・・中越沖地震で椎谷岬が不通だから、この道を選んだのかな?

この先、旧道を行くならば、米山山麓の青海川の坂道は、ドエライでっせぇ・・歩くのもヒーコラいいながら歩いた急坂だったしい。

今回は直江津までらしいが、その先の「親不知」は車がビュンビュン通り、歩道も無い所だからコケたら車に轢かれちゃうような危ない箇所でっさかいなぁ。

70才過ぎて、このような事に挑戦している人もいるんですなぁ。

σ(*_*)も越後霊場の続きをやりたいのだが、寒くて野宿もキツそうな季節になったので、コンジョ無しの軟弱な精神がフツフツと沸いてくる、秋の今日この頃・・・

しばらく留守して会津へ行ってきました。



会津と言えば「喜多方ラーメン」(左端)
はい、「和豚トロチャーシューあぶり焼きらーめん@850-」という、いかにも、それらしいのを食べてみました。

いつも食ってるラーメンと違って、やっぱり美味かった。
やっぱし本場モンは違いますなぁ。

会津には、もう一つ隠れた名物があるらしく、それが「ソースカツ丼」で
す。(中央)

会津ではないですが帰る途中、新潟県栃尾の「道の駅」で食べた「油揚げ@300-」(右端)
普通の油揚げよりも大きく、火で炙って食べるのが名物らしい・・と聞いた。

 会津三十三観音のお堂は、だいたいこんな感じのお堂が多いです。
場所的にも村内に有るお堂という風に、境内にはブランコが、たいてい有りました。そいでも、たまにこんな感じのお堂も有りましてなぁ。(左下観音)

 雨の日が1日有り、その日は会津市内を観光しました。
白虎隊の「あぁぁ・・城が・・お城が燃えている・・」の言葉で有名な会津城です。

「武家屋敷」」の一景ですが、何してるかわかりまっか?

こりはですなぁ、官軍が会津に迫った時、家老の家族が「婦女子が戦の足手まといになったらアカン」といって幼子から殺して時世の句を詠んで家族全員が自刃したそうな。

薩摩軍(だったかな?)の将校が、この家老宅に入った時、家族全員が死に絶えている中、一人の娘だけが死にきれず苦しんでいたそうな。

娘は霞んだ目で将校に「敵か?、味方か?」と問いかけ、将校は憐れみをもち「味方である」と答えると、娘は苦しみの中で介錯を頼み、将校も涙を呑んで介錯したそうな。

カワイソーな話しでんなぁ。

普通の戦ならば勝った方が良いように言われるが、日本人気質の「判官贔屓」のためか、会津攻防戦では負けちまったが、その一生懸命さ潔さから、後世に「負けの美学」を教えてるような気がする。

20年ほど前に会津へ来た時には、「薩長憎し」という雰囲気がジンワリと伝わったが、時代が過ぎたせいか、今回施設見学をした時には、当時ほどの「憎し」という物は感じられなかった。


会津の金山町に「鮭立ちの磨崖仏」ちゅうのが有りましてなぁ。

江戸時代、天明の大飢饉の被害を見た修験道の人が岩に彫ったらしいです。

ちょうどその時、団体が見物し終わった所で、道端で木の枝を折ってました。
σ(*_*) 「何採ってまんねん?」
オバハン「山椒です」

見れば山椒の木が有り、まぁ味噌汁に葉を浮かべる位なら、ええかもしれんと思って黙って見過ごしました。

ところが、あぁたあぁ~・・

σ(*_*)らが磨崖仏を見物しとると、団体のオバハンが
「ちょっとおぉぉ、ちょっとおぉぉ~・・
あそこに雪椿が有るって、早くおいでよ。
●●さあぁ~ん・・ユ・キ・ツ・バ・キ・・・早く、早く・・」


と、オバハンの仲間を呼び止めて奥の方へ、オバハン達が行きました。
おいおい、まさか雪椿の枝も折って来るんじゃねえだろなぁ・・

そしたら、あぁたぁ~・・ボッキリ折った雪椿の枝を、堂々と持って来るじゃありまへんか。

普通常識の有る人だったら、そんなにゴッテリ枝を折って来るか?

遠慮しながら小枝をソッ~と手折る位なら、まだ奥ゆかしいさが有るんだけど、さすがもうトシを取っちまって恥も外聞も捨て去り、「ゴオツクババアァ」「オバタリアン」という別名が付くようになると、そんなカワイラシイ事なんかしないのですなぁ。

団体に「先生」と呼ばれている人が居たから、俳句か謡曲とか詩吟とかの集まりだろうけれど・・・

おい、先生!!・・・どんなエライ先生で何を教えているのかわからんが、弟子の行為に注意しねえのか。

先生と呼ばれる立場での団体行動ならば、弟子のした事に責任が有ると思う。
全く、どんな指導しとるんじゃ。

ちゃんと入口の看板に「草木の採取等を禁じます」と書いてあるでねぇか。


 あんまり腹が立ったので写真を撮ってやった。
はい、これが現行犯の写真です。






春とはいえ、まだ寒い中を3日間の行程で直江津~米山付近を巡ってきました。

 はい、これが道具一式でごぜえます。

リュックの中には、非常食及びパンツなどの下着、寝袋・雨具・ツエルトなどが、ギュウギュウ詰めの窒息状態で入っております。

銀色の筒が、銀マットです。
あっ、知ってましたか・・・

黒い筒に尺八が入ってます。
その横のスーパーのナイロン袋は、その時の昼食です。

真ん中に杖と、おなじみの笠。

 こりが野宿現場写真です(左側の黄色の物)

某所「道の駅」のような所の店先庇に断りもなく、夜9時頃にツエルトを張りました・・すんまへん。

 大清水寺へ行く途中で休んだ所でごぜえます。
道端の左端に転がってるのが荷物でごぜえます。
ゴミではありまへん。

 途中風景 正面の山が「米山」

 大清水を降りる途中「聖ケ鼻」を望む

 
「聖ケ鼻」より「田塚鼻(牛ケ首)」方向を望む

右の写真は、左の写真より少し右側を撮ったものでごぜえますが、ご覧のように道路が昨年の中越沖地震により崩壊しており、どんな無理してでも向こう側へ行けそうにもないので、泣きながら来た道を戻りました。

まだ命が惜しいしぃ・・
ケガしたら痛いしぃ・・
転がり落ちて、新聞に出たらアホな事してるのが近所の人達にバレるしぃ・・

熊野古道・伊勢路の帰りに以前から行ってみたかった信州上田市にある「無言館」に寄ってみました。

前日、車野宿した「道の駅」に隣接した温泉で、
「あのお・・この近くにある「ムゴンカン(無言館)」は何時から開演されるかわかりますか?」
「えっ?・・はっ?・・ムゴンカン?」

「ムゲンカンというのかもしれまへん。戦没画学生の絵を飾ってる所です。近くにデッサン館も有るらしいですが、ご存知ないですか?」
「えっとおぉぉ・・ちょっと、知りませんが・・」

ええぇぇぇっっ!!・・・地元なのに知らないんかあぁぁ?!!

べつに無言館から1000kmも2000kmも離れてる場所じゃなく、たかが20kmほどしか離れとらんのにぃ。

県外のσ(*_*)でさえ、その存在を知ってるのになぁ・・聞いてもアカンと思い礼を言いました。

翌朝、地図を見ながら行きましたが、やっぱり一度道に迷っちゃった。(^O^)ダハハハ・・

行ってみると、雑木林に囲まれた静かな小高い丘の上に建っています。

駐車場には、ほとんど車が無く、あんまり人が来ていないかと思いましたが、中に入るとσ(*_*)ら位の年代のオバハン・オジサンが黙って絵や展示品を見ており、場内は静かでありながらも人いきれを感じます。

やっぱしこおういのは、一人か少人数で行くもんですなぁ。
団体でゾロゾロ入ってこられてワァワァー言われたら雰囲気がブチ壊しになる。

展示品の説明に
「あと5分、あと10分、この絵を描きつづけていたい。 外では出征兵士を送る日の丸の小旗がふられていた。 生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから…… 安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういいのこして戦地に発った。 しかし、安典は帰ってこれなかった。」

こおいうのを見ると、まさに無念の想いを込めた「無言」の声を聞いた気がします。

熊野古道と言えば、世界遺産。

しかしこの世界遺産になったため生活が出来なくなった人も居るようで、古道の道筋に落書きという手段で抗議した事がニュースで出ていました。

 はい、これが、その現場写真です(尾鷲側)。

場所は八鬼山峠の上がり・下りの道両方に書いてあり、どちらかというと尾鷲側から上る道の方がひどかった。

確かに行政側の不手際があったと思う。
それをアピールするために落書きし、行政側を追いつめたのは成功したと思う。

でも、古道を歩く客を味方に付けなかったのが失敗しただろおなぁ。

三木里側から上った時は、まだ同情的であったが、尾鷲側の道を歩いた時は、こりゃあぁ~やり過ぎじゃねぇかと、少々反発を覚えた。
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